“まちがえた表札”と過ごした 10年のこと (打浪 文子)

(音声(おんせい):おおわん はるさん)

(みな)さんは、
表札(ひょうさつ)」を()ることは ありますか?
(いえ)のポストや玄関(げんかん)(しめ)されている、
(いえ)()んでいる(ひと)名前(なまえ)(しる)した、あれです。
最近(さいきん)では、個人(こじん)情報(じょうほう)保護(ほご)もあって、
マンションなどでは、
ポストに 名前(なまえ)掲示(けいじ)しないものや、
名字(みょうじ)だけを ()いたりするもの、
ローマ()()のものなども
()えた()がします。

そんなふうに
変化(へんか)(つづ)けている表札(ひょうさつ)ですが、
わたしが まだ()どもだった
30(ねん)ほど(まえ)は、
一戸建(いっこだ)てが(おお)地域(ちいき)だったせいもあってか、
(おお)くの(いえ)に はっきりとした表札(ひょうさつ)があり、
名字(みょうじ)だけでなく、
家族(かぞく)全員(ぜんいん)名前(なまえ)()っているものも、
(おお)くありました。

さて、わたしには、
重度(じゅうど)知的(ちてき)障害(しょうがい)のある(おとうと)が います。
そんな()()は、
わたしが 小学校(しょうがっこう)年生(ねんせい)(なつ)に、
()()しをしました。

(あたら)しい(いえ)表札(ひょうさつ)(つく)るとき、
(はは)突然(とつぜん)、わたしに()いました。

(おとうと)名前(なまえ)を、あなたの名前(なまえ)よりも、
(さき)()ってきてもいい?
(おとうと)くんの名前(なまえ)を、家族(かぞく)(まも)るように、
(はさ)んであげたいの」

普通(ふつう)(なら)びだと、
(ちち)(はは)・わたし・(おとうと)」。
これを、「(ちち)(はは)(おとうと)・わたし」に
したいのだと、
(はは)は わたしに()ったのでした。
(おとうと)のことで、
父母(ふぼ)大変(たいへん)なのを ()っていた
小学(しょうがく)年生(ねんせい)のわたしは
(はは)気持(きも)ちに沿()って、何気(なにげ)なく
「いいよ」と ()ってしまいました。

でも、実際(じっさい)(あたら)しい表札(ひょうさつ)()(とき)
なんとなく、いやな(かん)じがしたのを
(おぼ)えています。
また、その(あと)
(あたら)しい(いえ)()んでみると、
近所(きんじょ)()から、
あるいは (あそ)びに()たわたしの友達(ともだち)から、
毎回(まいかい)質問攻(しつもんぜ)めにあうことに
なりました。

(おとうと)名前(なまえ)、なんで(さき)なの?」

説明(せつめい)しようとしたけれど、
小学(しょうがく)年生(ねんせい)のわたしは なぜか、
うまく言葉(ことば)に できませんでした。
だから、ぶっきらぼうに、
こう()うようになりました。

()らない。まちがえたんじゃない?」

もう(すこ)(おお)きくなってから、
わたしは(おも)いました。
「わたしは (うえ)()だけれども、
普通(ふつう)順番(じゅんばん)()げてまで
この(いえ)で “2番目(ばんめ)()”なのだと、
みんなにも()えるように (しめ)されている。
それが(いや)なんだ」と。
自覚(じかく)したわたしは、(おや)反論(はんろん)しました。

やがて、わたしの名前(なまえ)(おとうと)名前(なまえ)には
テープが()られ、
表札(ひょうさつ)修正(しゅうせい)されました。

わたしは 高校(こうこう)卒業(そつぎょう)するまで、
その(いえ)で、(やく)10(ねん) ()らしました。
出発(しゅっぱつ)帰宅(きたく)(とき)()(はい)る、
“まちがえた表札(ひょうさつ)”を
(すこ)(にが)(おも)いで、毎日(まいにち)毎日(まいにち)
見続(みつづ)けました。

“まちがえた表札(ひょうさつ)”は、なぜ()まれたのか。
それは (おとうと)障害(しょうがい)があるからだと、
(むかし)(おも)っていました。
ですが、それだけではないのだ、と(おも)います。

(あら)たな地域(ちいき)()らすことに、
父母(ふぼ)(つよ)緊張(きんちょう)(おぼ)えるほど、
障害(しょうがい)()とその家族(かぞく)(たい)して、
社会(しゃかい)近隣(きんりん)からの
(きび)しいまなざしが あったから。
あるいは、父母(ふぼ)内面(ないめん)()してしまっていた、
30(ねん)(まえ)社会(しゃかい)における
女性(じょせい)女児(じょじ)位置(いち)づけの (ひく)さや、
ケアラーとしての きょうだいへの期待(きたい)
そういったものの総体(そうたい)が、
“まちがえた表札(ひょうさつ)”として、
(やく)10(ねん)(かん)日々(ひび)
わたしに (ちい)さな(のろ)いを
かけていたのだと、(いま)(おも)うのです。

(いま)では、表札(ひょうさつ)(かか)げる(いえ)
(すく)なくなりました。
(なに)より、きょうだいたちの存在(そんざい)
(こころ)のケアにも、
着目(ちゃくもく)されるようになりました。
そして、差別(さべつ)(こう)することができる
情報(じょうほう)発信(はっしん)方法(ほうほう)や、
社会(しゃかい)への()いかけとして
(こえ)()げられる方法(ほうほう)()えました。
わたしが ()どもであったころに(くら)べて
()(なか)急速(きゅうそく)に、
そして 確実(かくじつ)にいい(ほう)
変化(へんか)していると(おも)います。
そんな(なか)今回(こんかい)()いたような経験(けいけん)を、
言葉(ことば)にして(のこ)しておきたいと、
わたしも (おも)うようになりました。

そこで 2022年度(ねんど)のコラムでは、
障害(しょうがい)」を 過度(かど)(にく)むことなく、
過度(かど)(あい)することなく、
(しず)かに(おだ)やかに
(となり)にあり(つづ)けるために 必要(ひつよう)なことを
きょうだいである、
しかし 一人(ひとり)個人(こじん)である
「わたし」の視点(してん)から、(かんが)えたいと(おも)います。
ごく個人的(こじんてき)経験(けいけん)(でもちょっと(かたよ)っているかもしれない経験(けいけん))を ()()して、
いろんな角度(かくど)から、
(ひかり)()ててみたいと(おも)います。
面白(おもしろ)いものになるかは わかりませんが、
(ねん)(かん)、コラムにお()()いいただけましたら、(さいわ)いです。

((ぶん)(ふく)代表(だいひょう)打浪(うちなみ) 文子(あやこ))

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